2015年12月26日
岸壁の母
先日、京都府舞鶴市にある「舞鶴引揚記念館」に行く機会がありました。
昭和20年に太平洋戦争が終結し、中国大陸等の外地に約660万人もの日本人が残されました。
舞鶴港は、日本海軍の軍港として使用されていましたが、戦後は、主に旧満州、朝鮮半島、シベリ
アからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となり、昭和20年から昭和33年まで実に13年間にわた
り、約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れました。
歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなった“端野いせ”さんも舞鶴港にて息子の帰りを待ち続け、ついに
願いがかなうことなく、その生涯を終えられました。
記念館の収蔵資料の一部が、今年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録されたこともあり、多く
の人々が見学に訪れていました。
館内にて、見学されていた80歳代の引揚経験者の方とたまたまお話する機会もあり、また小学
生、中学生の見学者も多く、次世代への記憶の継承の必要性を痛感しました。
by 中島
《撮影:中島》
昭和20年に太平洋戦争が終結し、中国大陸等の外地に約660万人もの日本人が残されました。
舞鶴港は、日本海軍の軍港として使用されていましたが、戦後は、主に旧満州、朝鮮半島、シベリ
アからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となり、昭和20年から昭和33年まで実に13年間にわた
り、約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れました。
歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなった“端野いせ”さんも舞鶴港にて息子の帰りを待ち続け、ついに
願いがかなうことなく、その生涯を終えられました。
記念館の収蔵資料の一部が、今年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録されたこともあり、多く
の人々が見学に訪れていました。
館内にて、見学されていた80歳代の引揚経験者の方とたまたまお話する機会もあり、また小学
生、中学生の見学者も多く、次世代への記憶の継承の必要性を痛感しました。
by 中島
《撮影:中島》
Posted by
ムラッキー
at
07:21
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